
こんにちは、ニャックです。
前々回の記事で書いたように、
動悸と涙が止まらなくなった日がありました。
それをきっかけに、
「これはさすがにおかしい」と自分でも認めざるを得なくなりました。

ただ、
自覚したからといって、
すぐに「じゃあ休みます」と決断できたわけではありません。
仕事の責任とか、
これからのキャリアとか、
いろんなものが頭の中で渦巻いていました。
今回は、
産業医やクリニックを受診して、
最終的に休職が決まるまでの話をしようと思います。

自分にとっては、人生の大きな分岐点だった気がします。
産業医に相談するまでの、拭えない不安
最初に相談しようと思ったのは、
会社の産業医でした。
でも、
正直に言うと、
面談を申し込む直前までずっと迷っていました。
「こんなことで相談していいんだろうか」
「大げさだと思われないか」
「人事評価に響いたらどうしよう」
そんな不安が、常に頭の片隅にありました。
インフラ運用の現場で10年以上、
なんとか踏ん張ってきたという自負が、
逆に「弱音を吐くこと」への抵抗になっていたんだと思います。
それでも、
このまま一人で耐え続けるのはもう無理だ、
という感覚も同時にありました。
自分の場合は、
恐怖よりも「このままでは本当に壊れる」という危機感が、
わずかに上回った結果の相談でした。
これまでの状況を、
できるだけ淡々と話しました。
眠れない夜が続いていること。
急に涙が出てくること。
内心はバクバクでしたが、
声だけは落ち着かせようと必死でした。
「気合」の問題じゃないと、誰かに言ってほしかった
産業医の先生は、
僕の話を静かに聞いてくれました。
そして、
「一度、専門の医療機関を受診したほうがいい状態だと思います」と言われました。
否定されるのが怖かった僕にとって、
その言葉は少し意外でした。
「あ、受診していいんだ」と。
突き放されたわけではなく、
自分のしんどさが、誰の目から見ても「異常」だと認められたような気がして、
少しだけ肩の力が抜けました。
でも、
家の近くのメンタルクリニックを予約する時も、
まだ迷っていました。
「やっぱり気の持ちようじゃないか」
「病院に行くほどではないんじゃないか」
クリニックの扉を開けるその瞬間まで、
そんな往復書輪を繰り返していました。
「適応障害」という診断名
診察室で、
これまでの仕事内容や家庭のことを一通り話しました。
インフラ運用の責任の重さや、
夜間対応が続いていたこと。
話しているうちに、
自分が思っていた以上に、
長い間無理を重ねてきたんだなと、
他人事のように感じたりもしました。
先生から告げられたのは、
「適応障害の状態ですね」という言葉でした。
その言葉を聞いた瞬間、
驚きよりも、
どこかホッとした感覚がありました。
自分の苦しさに、
「適応障害」という名前がついた。
「なんだ、やっぱり気合の問題じゃなかったんだ」 そう思えたことが、
僕にとっては一番の救いでした。
診断書を書いてもらい、
もう一度産業医と面談し、
上司を交えて話し合いました。
「今は回復を優先すべきだ」という結論になり、
休職が正式に決まりました。
その時、
ようやく自分の中で「もう止まっていいんだ」と腹が決まりました。
「逃げた」のではなく、自分を「守った」のだと思う
休職が決まったあとも、
「これでよかったのかな」という迷いが消えたわけではありません。
職場の人への申し訳なさや、
戻る場所があるのかという不安は、
今も消えてはいません。
でも、
あのまま無理を続けていたら、
もっと深く、
取り返しのつかない壊れ方をしていたはずです。
休職は、
キャリアを諦めるための選択ではなく、
これからも長く続けていくために、
自分という「システム」をメンテナンスする判断だった。
今は、そう思うようにしています。
自分の場合は、
体が悲鳴をあげ、
診断書という形のあるものをもらって、
ようやく止まることができました。
それだけ、
自分を後回しにすることに慣れきっていたんだと思います。
休職が決まって、
最初に来たのは「これからどう過ごせばいいんだろう」という戸惑いでした。
次の記事では、
休んでいる間の、
言葉にできないような時間の過ごし方や、
少しずつ変わっていった視点について書いてみます。

ここから考え方が少しずつ変わっていきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。







