こんにちは!ニャックです!
こちらは当ブログの管理人「ニャック」プロフィールページです。
私のプロフィールに興味を持っていただき、ありがとうございます。
このページで私がどんな人間で、どんな人生を送ってきたのか知っていただけると思います。
記事を読んでいただく際も、どんな経験をした人間が記事を書いているのか知っていただくことで、少しは記事の信憑性が増すかなとも思いますので、読んでいただけると嬉しいです。
名前:ニャック
年齢:アラサー
血液型:B型
所在地:首都圏
職業:システムエンジニア
家族構成:妻、息子、猫
趣味:食べ歩き、ゲーム、アニメ鑑賞、サッカー観戦
来歴(簡易版)
- 高校卒業後、浪人しながら働く
- 2浪の末、大学に進学
- 奨学金を生活費として親に使われ、最終的に24歳にして600万円の借金を抱える
- 大学卒業と同時に現在の会社に就職
- 職場恋愛にて人生初めての彼女ができる
- 彼女と半年ほどで別れ憔悴、婚活することを決意する
- 3ヶ月間の婚活期間の末、妻と出会う
- 結婚相談所を退会
- 妻と同棲開始
- 結婚
- なかなか子供が出来ず、妻と一緒に妊活開始
- 1年越しで妻が妊娠
- 子供が産まれてパパになる
ざっくりとこんな感じの人生を送ってきました!
辛い時期もありましたが、今はとても楽しい生活を送っています!
来歴(詳細版)
ここから先は、より詳細に私の過去について記載していきます。
結構な長文になりますので、私の過去に興味ある物好きな方以外は引き返してください。
幼少期から高校時代まで
私の家族は両親と妹の4人家族で、父親は職を転々とし、収入が安定していませんでした。
母親はそれを補うために朝から晩まで働いてくれていました。
家族4人で2Kのボロアパートにずっと住んでおり、私や妹にとって「自分の部屋」という概念は存在しませんでした。
プライベート空間といえば、風呂とトイレだけ。そこもずっといられる訳ではありません。
カーテンで畳一畳分の簡易的な部屋を作ったりもしましたが、それも付け焼き刃。
特に年頃の妹はとても辛かったと思います。
父親は自分の気に入らないことがあると、すぐに怒鳴りつけ、手を挙げ、物を壊す人でした。
母親と妹と私は、何が父親の逆鱗に触れるか分からず、毎日怯えながら生活していました。
私も何度殴られ、お年玉で買った大切なおもちゃやゲームを壊されたか分かりません。
こちらが完全に悪いのであれば、納得もいくのですが、割と理不尽に怒られるのです。
例えば、小学生の頃はよくタバコを買いに行かされていたのですが、
「タバコを買いに行け!」と言われたある日、その時やりたい事があったので、私は少し躊躇しました。
すると父親は「嫌なら嫌と言って良い」と言ってきました。「嫌と言っても良いんだ!」自分は意見を言ってはいけないと思っていた私はとても嬉しくなりました。そして、言いました「嫌だ」と。
結果、その後に物凄く怒られて、結局買いに行かされました。(今でも凄いトラウマです。)
この他にも似たようなエピソードは数え切れないほどあります。
理不尽だと思いませんか!?
そんな父親は、タバコ、パソコン、車、携帯、競馬、釣り、等に湯水の如くお金を使い、そもそも少ない収入を使い果たします。
私や妹の教育費は祖父母から借りていた(貰っていた)ようです。
私と妹はお小遣いを親からもらったことはありません。
唯一の収入源はお正月にもらう年一回のお年玉です。
ですが、このお年玉も貯金をして残していると、何かと理由を付けて父親に命じられた母親に回収されます。
欲しいものがあるならば、速攻で使うか、隠すしかありませんでした。
社会人になってからもこの感覚がしばらく抜けず、割と貯金できない人間でした。
宵越しの金はもたねぇ!ってやつですね。
生活はどんどん苦しくなりますが、母と妹と私は逆らうことは出来ず、母はただ仕事を増やし、幼い私と妹は何もすることは出来ませんでした。
幼少期から父親の顔色を伺って育ってきたので、無意識に人の顔色を伺いながら話すようになりました。
それは学校の同級生でも同じで、自分の意見を言うことができませんでした。(今も苦手です。)
自己主張ができないので、嫌なものは嫌と言えませんでした。
加えて、父親はタバコを1日1箱以上吸うようなヘビースモーカーであったため、狭い家の中では煙からの逃げ場は無く、服や物は全てタバコの匂いがしました。(自分では分かりませんでしたが。)
同級生からは「お前タバコ臭い!」「お前に物を貸すとタバコ臭くなるから貸さない!」などよく言われたものです。いじめられた事もありました。
そんな状態なので、当然友達は多くなかったです。
ですが、不登校などにはならなかったです。なぜなら、家で父親とずっといるよりはマシだったからです。
家庭内外共にお世辞にも良い状態ではありませんでしたが、祖父母の協力もあって、私は高校生になることができました。公立高校に行くことが絶対条件だったので私なりに結構勉強しました。
高校生になると、部活やバイトなどを理由にあまり家にいる時間も少なくなり、父親と顔を合わす機会も減ってきたので、嫌な思いをすることも減ってきました。
バイト代で家計に少しは貢献でき、良い友人にも恵まれたので、高校生活はとても楽しく過ごすことができました。モテませんでしたがw
高校2年生になって、将来の進路を決める時期になりました。
私は常々大学に行きたいと思っておりました。
子供ながらに大学に行かなければ、将来苦労すると思っていたのと、父親のようになりたくなかったという気持ちから、大学進学を強く希望しました。
父親と母親は大学には行かずに、高校を出てすぐに働いていたので、大学に行きたいという私の気持ちを最初は理解してもらえませんでした。
しかし、ここで折れては人生が終わってしまうという気持ちで、父親への恐怖を押し殺しつつ両親を説得し、大学進学を許可してもらえました。
家で勉強していると父親に高確率で邪魔されてトラブルになるので、近所の図書館や友達の家などを活用して受験勉強や試験勉強をしていました。
割と順調に大学受験の準備が整い、高校3年生の1月を迎えました。
そろそろ、受験本番直前です。
いざ!受験までラストスパートというところで悲劇が起きます。
父親がアルバイトをクビになり無職になりました。
浪費癖は相変わらずで、当然家に蓄えは一切ありませんでした。来月の支払いはどうしようかという状態になってしまいました。
そして、受験の申し込みをしようとしていた私に父親はこう言ってきました。
「大学に行くのは諦めろ。お前はそういう運命だったんだ。」
頭が真っ白になりました。アルバイト代はほとんど家に入れていたので、私自身も貯金はほとんどありません。
親戚もすでに両親がお金を借り切ってしまっていて、頼りにすることが出来ませんでした。
今思えばどうにでも出来たと思いますが、
当時18歳で知識もない私にとってはとても大きな障壁でした。
しかし、私は大学進学を諦めることは出来ませんでした。
「父親のようにはなりたくない!」思うのはそれだけでした。
しかし、知識もお金もない若輩者の私は親に頼らずに生きていく術を知りませんでした。
悔しいですが、就職するまでは父親に頼らざるを得ません。
そこで私が出した答えは、「浪人して働きながら勉強する」という道でした。
少ないですが、家に生活費を入れて、家に住まわせてもらい、大学の進学費用を自分で貯めて大学に行くという計画です。
両親は正直本腰を入れて働いて欲しかったようですが、なんとか説得して浪人を許可してもらいました。
こうして、私の浪人生活がスタートしました。これが地獄の始まりであることを当時の私はまだ知りませんでした・・・
浪人時代
高校の卒業式を終えて、晴れてプー太郎になりましたw
周りの友人は大学に進学したり、就職したり、私と同じく浪人したりと色々でしたが、「浪人しながら働く」というのは私くらいでした。
とりあえず、お金を貯めなければならないので、高校時代からバイトでお世話になっているスーパーでレジ打ちのバイトをシフトの許す限り入れました。
しばらくは週5日くらいは以下のような生活の繰り返しでした。
残り2日は休みにしたり、勉強の日にしたりと自由に使っていました。
8:00 起床
8:30 朝食
9:30 バイト先出勤
12:00 昼休憩
13:00 バイト
17:00 バイト終了
17:30 帰宅
18:00 勉強
20:00 夕食
21:00 入浴
22:00 勉強
23:00 娯楽(ゲーム、アニメ鑑賞)
0:00 就寝
当時の時給は850円でした。7時間働いて約6000円です。
働き過ぎると、父からの扶養が外れて父親の税金が上がるので、そこは絶対に超えるなと言われていたので、
調整する必要がありましたが、それでも大学の費用だけを考えるのであれば、1年あれば余裕で貯められる計算でした。
しかし、私の場合はそうは行きません。家へ生活費を入れなければなりません。
とりあえず、最低でも毎月5万円家に入れていました。
しかし、ほとんど毎月、追加徴税がありました。
「電気代が払えない」「カードの支払いができない」「携帯代が払えない」理由は様々です。
そんな感じでプラス3万円〜5万円は持って行かれます。収入の8割以上です。
私もお金を貯めるだけという訳には行きません。
参考書を買ったり、ノートなどの文房具を買ったり、たまには息抜きに遊んだりと日々の生活でもお金は消費されていきます。
そうした生活をしながら数ヶ月経過したある日、ついに気が付きます。
いや!このペースじゃ絶対貯まらないじゃん!
浪人して家に置いてもらっている手前、家に入れるお金を減らして欲しいとは言えませんでした。
かと言って、バイトの時間をこれ以上増やすのも、勉強時間が取れないし、既に扶養制限ギリギリのペースで働いていたので難しい状況でした。
悩んでいる私に父親がこう声をかけてきました。
「俺の仕事を手伝ってみるか?」
私が高校を卒業した直後は無職だった父親は、その後運良く昔の友人と再開し、その友人が経営している会社に雇ってもらっていました。(正社員ではなく、外注扱いでしたが。)
その仕事は建設現場での仕事で、繁忙期だったので非常に忙しく、歩合制のため凄く稼げる仕事でした。
私が手伝った分も父親の給料として貰うことで、扶養制限の面もクリアできるし、今よりももっと稼げるという算段です。(今思えば法律的に大丈夫だったのか?とは思いますが・・・)
私は正直悩みました。父親のようになりたくないと思っている私が父親と同じ仕事をするというのは、非常に抵抗があったからです。
ですが、当時の私にはそれ以上の案は浮かびませんでした。
なりふり構っていられなかったので、父親を信じて、その話を受けることにしました。
父親の仕事を手伝うため、スーパーのバイトは辞めました。
父の仕事の手伝いが始まり、私の1日のスケジュールは以下のようになりました。
5:00 起床
5:30 朝食
6:00 父の車で現場へ出発
7:30 現場に到着
8:30 朝礼
9:00 仕事開始
12:00 昼休憩
13:00 仕事再開
18:00 仕事終了
19:30 帰宅
20:00 入浴
20:30 夕食
21:00 明日の仕事の準備
21:30 娯楽(アニメ鑑賞)
22:00 就寝
勉強する暇がねぇ!
もう少し遅くまで起きて勉強すれば良いのではないか?と思うかもしれませんが、
仕事内容は重い荷物を何度も運び、慣れない取り付け作業を脚立の上でずっとやるような「The 肉体労働!」
インドアな私には、とても過酷で家に帰ったらもう何もする気は起きませんでした。
そして、次の日も早いので早く寝なければなりませんでした。
1日に30分だけアニメを見るのが、この時の私の唯一の楽しみでした。
土日は基本休みでしたが、平日の疲れが抜けず、ただ体を休めるだけの1日を過ごすだけで何も出来ませんでした。休みの日は父親も家にいるので心休まることは無かったですが・・・
お金の目処が立ってから勉強時間は取り戻せば良い。そんな甘い算段で過ごしていました。
大嫌いな父親と1日一緒にいるストレスや体への負担も大きく、かなり辛かったですが父親は行き帰りの車の運転もして、私以上に仕事をやっていたので、弱気なことは言ってられませんでした。大学の資金を貯めなかればならないという思いもありましたし。
父親に怒鳴られながらも、仕事は着実に覚えていき、割と戦力になるくらいには成長することができました。
父親の給料もどんどん増えていき、多い時には1ヶ月で額面80万円をもらった月もあるようでした。
この感じであれば、もうお金の心配をしなくても大丈夫かもしれない。当時の私はそう思っていました。
仕事はとても順調で、父親や母親も私に感謝をするようになりました。
それ自体は素直に嬉しかったです。
しかし、父親との仕事を始めて数ヶ月経ちましたが、私にお金が回ってくることは一度もありませんでした。
これまでも、これからも。
実質収入がなくなったので、家へ入れるお金は0円になっており、立場上「金をくれ」とは言えませんでした。
きっと、私の分は貯金してくれているのだと信じていました。なので、特にそのことには触れずに黙々と仕事をやってきました。
私はバイトで貯めていた少ない貯金を使って日々を細々と暮らしていましたが、父親の持ち物や家の家具はどんどん良くなっていきました。
父親は携帯を3台持ち、当時出たばかりのiPhoneを持ち、最新のデスクトップPCやノートPCを買い、タブレットまで持っていました。どれもまともに使っているところは見たことありませんが。
家具は、最新の液晶テレビに置き換わり、ホームベーカリーやらエアコンやら、色々家の中が変わっていったのを覚えています。
今まで買いもしなかった、母親へのプレゼントでネックレスを買っていたりもしました。
「リボ払いってスゲー」と言いながら父親が買い物をしている姿は今思えば恐怖でしかありませんが、当時の私にはそんなことはわからず、ただ静観していました。きっと私の分は残してくれていると信じて・・・
ちなみにリボ払いで100万円以上借り入れていたようです。
そして、そろそろ1年越しの受験の季節がやってきました。
受験を理由に仕事に行く頻度を抑えさせてもらい、勉強に集中する日々に戻りました。
志望校をいくつかピックアップして、もし合格したらこの位費用がかかるということを伝えました。父親と一緒に働いて、初めてお金の話をした瞬間でした。
きっと、余裕で足りているはず。そう思っていた希望は、次の瞬間絶望に変わります。
「そんな大金うちにはない」
父親から発せられた言葉には一瞬耳を疑いました。
話を聞いてみれば、本来私の取り分だったお金はほとんど使ってしまっていたそうです。
日々の生活費や借金の返済など支払うものが一杯あるのだとか。
繁忙期と比べれば、仕事量も減り、家計がまた苦しいのは理解できます。
しかし、そんなことは関係ありません。
ふざけるな!俺の金を返せ!俺の一年を返せ!
私は流石に怒りました。これまでに無いくらい怒りました。
怒りと共に強烈な後悔に襲われました。
ちゃんと取り分について確認しておけばよかった。
浪費を指摘すればよかった。
父親を信じなければよかった・・・
ですが、いくら怒ったところで無い袖は振れません。
無念ですが、もう一年働いて稼ぐ決心をしました。
二度と父親のことは信じない。そう胸に強く誓って。
浪人生活2年目になり、またバイト生活に戻ります。
流石に両親も悪いと思ったのか、家に入れるお金はかなり免除して貰えることになったで、
普通のバイトでも十分に1年間で貯めることが現実的になりました。
2年目はお金も順調に溜まり、受験勉強も自分なりに一生懸命やり、第一志望ではありませんでしたが、大学に合格することができました。
正直、お世辞にもレベルの高い大学ではありませんでしたが、当時はこれまでの人生で一番嬉しかったです。
やっとこの地獄から解放される・・・そう思いました。
2年間という長い道のりでしたが、自分でお金を貯めて大学の入学金と授業料を払い、晴れて大学生になることができました。
大学生時代
大学生になりました。
周りは2歳も年下ばかりなので、話が合うのか?バレたらバカにされないか?そう思って最初はドキドキしていました。(今思えば、無駄な心配でしたが。)
レポートやテスト勉強などは大変でしたが、幸い友人にも恵まれ、楽しいキャンパスライフを過ごすことができました。
4年間の授業料も当然自分で払う必要がありますが、バイト代だけでは到底足りませんので、奨学金を借りました。最初は第1種(無利子)だけだったのですが。
家計が苦しいという理由で、支払い時期には必ず返すからお金を家に入れて欲しいと母親から頼まれました。
母親のことは助けてあげたいと思い、第2種の奨学金も満額借りました。
最終的に600万円ほどの奨学金返済が私にのしかかります。正直大学の費用だけであれば、600万円も必要ないのですが、大学を卒業する頃には口座には1円も残っていませんでした。
まぁ、毎回延滞手続きが必要でしたが、未納で退学させられることはなかったので、少しでも助けになるのであればと思い、当時の私は許しました。
どうも、消費者金融で借りて工面していたようですが・・・
今思えば、無理にでも家を出ればよかったと思います・・・
まぁ、そんなこともありますが、大学生活は楽しんでいました。
特にサークルなどには入らず、友達とバカやって遊んだりして日々を楽しんでいました。
大学2年も後半になり、そろそろ就職活動を意識し出します。
ここで失敗したら、せっかく苦労して大学に入学した意味がなくってしまうため、割と必死でした。
しかし、大学生活の中で特に自慢できるようなことは私にはありませんでした。
成績も中位、サークルやボランティアもやらず、バイトはそこそこに友達と遊んでいただけです。
このままではマズイと思い、色々準備を始めました。幸い私の周りの友人も就活の意識が高かったので、みんなで協力関係を築くことができました。
大学でやっている就活セミナーに参加したり、色々な企業について調べたりして、自分はどんな業界で働きたいのかを考えました。
結果として、システムエンジニアを目指すことを決意します。
元々、パソコンに興味があり、大学の学部もそれを意識して決めていたので、ある意味既定路線ではありましたが、改めて自分に対して問いかけることで、決意を固められました。
3年生になってやったことは、就職が決まって社会人となっている、本来の同級生に色々聞きまわりました。
エントリーシートや履歴書には何を書いたか?どんな企業が良いのか?
直近の実体験を聞けるので非常に有用な情報を得ることができました。
その他にもインターンシップに行ったり、大学OBの方に面接の相手をしていただいたり、活動的に色々やりました。
就活のために色々やったことを、エントリーシートや履歴書に書いて、働きながら2浪したことも前面に出していきました。
2浪したことは必ず面接では指摘されます。通常では不利になることですが、むしろ強みのエピソードに変えてやろう熱烈に語ってやりました。結果は大成功!予想以上にウケがよかったので、2浪であることはそこまで不利には働かなかったかもしれません。書類選考で落ちた会社ではわかりませんが・・・
努力の結果、現在勤めている会社に内定を貰うことができました。就職人気ランキングでも上位に入る、かなり大手の会社で同学年ではトップクラスに良い就職先でした。
このブログでは、私が就職活動で行った、より具体的な方法をご紹介していくので、興味のある方は記事の方も見てくださいね。
良い会社に就職することは出来ましたが、24歳にして借金が600万円。
父親が返済を協力するとは言っていましたが、信頼はしていません。(実際1円も払ってくれませんでしたが
まだまだ、課題はありますが、やっと人生が軌道に乗ってきた感じです。
父には散々悔しい思いをさせられましたが、ようやく形勢逆転する第一歩を踏み出すことができると思うと、胸が躍りました。
5年後にはもう偉そうなことは言わせない!そんな野望を夢見て頑張ることを決意するのでした。
社会人時代
ついに現在の社会人編です。
ここまで、読んで頂いている方、お疲れ様です。
社会人時代は色々なイベントがありますので、さらに章毎に分けて記載させていただきます。
新入社員時代
晴れて会社の一員となり、入社式を迎えました。
立派なホテルのホールを貸し切っての入社式で、会社の大きさを感じました。
同期はざっと300人くらいのようで、皆さん何だかギラギラしていました。
早くも仲良くなっている方同士も結構いて、周りのコミュ力の高さに圧倒されました。
入社式では、入社に際して必要な書類や、資格やビジネスマナーの本など大量の紙を貰いました。
これ全部読んだり、書いたりするのか・・・
一抹の不安を抱えつつも、新しい生活に希望を抱きながら、社会人初日を終えました。
2日目以降は研修が始まります。3ヶ月の研修期間がありました。
30人ずつ位でクラス分けされて、毎日授業のような形式で色々な研修を行い、少し中学や高校時代を思い出すような毎日でした。
Javaなどのプログラミングやビジネスマナーなど、色々な授業を行いました。
研修が終わり、ついに配属です。
私は官公庁をお客様とする部署に配属されました。
システムを構成するためにサーバを構築して、官公庁に納品するというのが主な業務になります。
私はプログラミングをやるとばかり思っていたので、サーバ構築?なにそれ?最初はそんな感じでした。
MACアドレスって何?マクドナルドの住所のこと?そんなレベルですw
最初はわからない事だらけでしたが、OJT(指導員)の方に色々と教わり、少しずつですが、それなりに知識を持てるようになりました。
仕事も徐々に任されるようになり、配属されて半年後くらいに、大きなプロジェクトに参加することになりました。
そのプロジェクトが結構地獄でした。
お客さま先にサーバの構築に行くのですが、家から片道2時間半かかる道のりで毎日終電で帰る毎日でした。
残業は1ヶ月で150時間を超える時もありました。(今では法律に触れる働き方です。)
新入社員にはかなり辛い仕事だったと今も思いますが、とりあえず頑張るしか無いとただひたすらに目の前に仕事を片付けていきました。
このプロジェクトが終われば大分お金も貯まるはずだから、そのお金で家を出て一人暮らしを始められるかもしれないという、楽しみもあったので、頑張れました。
この経験は今後の仕事でも非常に役立っていると思います。
二度とやりたくは無いですし、お勧めもしませんがw
父が倒れる
地獄のような仕事が続く中、いつものように朝早く仕事に行こうとしていたある日、父の様子が変でした。
どうしたのかと様子を見ていると、急に倒れて大きなイビキを始めました。
母が慌てて、父の元へ行くと私に向かって言いました。
「息してない!」
慌てる母に救急車を呼ぶように指示して、私は父に心臓マッサージをしました。
大嫌いな父ですが、その時は何も考えずただ救おうと必死でした。
救急車が来るまで10分ほど、私は必死で心臓マッサージをしました。
救急隊員が到着し、私と交代して治療を開始します。
私はその間に上司に電話し、状況を伝えて、休暇を貰いました。
仕事が佳境にも関わらず、「こちらのことは気にしなくて良い」と言ってくれた上司には今も感謝しています。
ある程度の応急処置が終わり、救急車で病院に運ばれます。
母と妹と私も同じ救急車に乗り、付き添いました。
病院に着いたらすぐに緊急手術が開始されました。
手術は無事終わり、お医者さんから父の容態について説明を受けます。
もうお察しの方もいらっしゃると思いますが、父は「急性心筋梗塞」になってしまったようです。
心臓の近くにある、大きな血管が血栓で詰まってしまったようです。
手術では、血管に別の通り道を作るバイパス手術が行われました。
手術は成功しましたが、父は目を覚ましません。
しばらく脳に酸素が入っていない状態だったので、脳にダメージがあるかもしれないとのことでした。
しばらくICUで体温を下げる治療をして、脳への負担を減らす処置をするという説明を受け、その日は帰りました。
母も妹もまだ混乱しており、こんな状態で仕事に行くのも難しいと判断し、上司にしばらく休暇を貰う許可を貰いました。
親戚や父の仕事関係、父の友人など、普段連絡をとっているであろう方達に私の方から電話して状況を伝えました。会社の研修でやった電話対応がこんなところで役立つと思いませんでした。
そこからは毎日、家族みんなで父へのお見舞いに行きました。
祖母や親戚がお見舞いにくる日もあったので、その迎え入れをしたりもしました。
ICUなので長居は出来ませんが、父に声をかけて応援しました。
ICUに入って5日目のことでした。お見舞いに行くと、父が病室にいませんでした。
どうも、検査に入っているのだとか。
「少し状態が良くなったのかもしれないね」などと話しながら待っていると、病室にお医者さんが入ってきて、父についてお話しがあると言われました。
別の部屋に通されて、椅子に座ると、お医者さんの話が始まりました。
内容はもちろん、先ほどまでやっていた検査結果についてです。
お医者さんから告げられた結果は、楽観的に考えていた私たちをどん底へ突き落としました。
父の脳は完全に機能が停止しており、もう目覚めることは無いと説明されたのです。
それを聞いて、母はその場で泣き崩れました。その姿を見て、妹も泣いていました。
私は不思議と心が穏やかというか、何も考えず、ただ呆けていました。
悲しくもなく、嬉しくもなく、怒りもなく。ただ無でした。
母が落ち着くと今後の治療方針について話が移ります。
所謂、植物状態になってしまいましたので、あとは基本的に亡くなるまで入院をするだけになります。
我々が決めなくてはならなかったのは、容体が急変した際に延命するかしないかです。
母は辛そうでしたが、目覚める見込みの無い父を延命するほど家には余裕がありません。
長く生きてくれれば、新しい治療法が見つかるかもしれない。
そんなことも考えましたが、私たちは延命しないことを選びました。
入院の手続きを済ませて、家に帰ります。家についても悲しんでいる母を見ていると、少し悲しくなる気持ちもありましたが、その日はもう何も考えることは出来ませんでした。
次の日以降は、父は普通病棟へ移りました。
一旦、状況が落ち着いたので、私は会社に復帰しました。
私が戻る頃には仕事も少し落ち着いており、休暇前のような激務になることは今後ありませんでした。
会社に戻ってからは、父を私の扶養に入れて、健康保険証を会社から発行してもらったりなど、色々手続きもしました。
父の手術代や入院代、携帯電話などを解約するには「成年後見人」という人を立てなければならず、それをお願いするための弁護士代など、家にはお金がありませんでしたので、私が支払いました。
当時まだ実家暮らしだったので、家に10万円くらいのお金を月々入れており、加えて奨学金の返済もあるので、そこまで貯金は出来ていませんでしたが、残業代やボーナスのおかげで何とか払うことができました。おかげで私が数ヶ月かけて貯めたお金は無くなりました。
加えて、母は父の事が相当ショックだったようで、父が倒れてから数日後にはうつ病と診断され、パートにも行けなくなってしまいました。
妹は高校を卒業してから、働いていないので、稼ぎ口が私しかいなくなりました。
こんな状態の母を妹1人に任せて、家を出るわけには行かないと思い、家を出ることは当分諦めました。
家を出たい理由であった父がいなくなったので、そこまで迷うことはありませんでした。
ですが、高校時代に言われた父の言葉を思い出しました。
「お前はそういう運命だったんだ。」
そう、大学に行くのを諦めろと言われた時の言葉です。
何だか、私が家から出ることを許さないと言って、父に操られているような、そんな感覚に陥りました。(そんな訳ないのですが。)
金銭面は苦しかったですが、母と妹と私の3人暮らしは非常に穏やかで、正直言って快適でした。
母も父には相当苦労していたので、父のいない生活にストレスがなくなり、うつ病自体は直りませんでしたが、少しずつ笑顔が戻るくらいになっていきました。
私は、母と妹を支えなければいけないという責任がありましたので、現状を嘆くことは許されませんでした。
父のお見舞いに来た、親戚や父の知り合いからは、毎回毎回、「お前が頑張らなきゃいけないんだぞ」と有難いお言葉を頂戴しました。
こいつら、裏で打ち合わせしてんのか?と思うくらいに毎回毎回同じことを言われました。
また、何も知らない会社の同僚からは、
「実家暮らしなんて羨ましいね〜。えっ!?あまり遊んだりしないの?じゃあお金一杯溜まって仕方ないでしょ〜?羨ましい。今度何か奢ってよ!お〜い、ニャックが何か奢ってくれるって〜!」
どいつもこいつも何も知らない癖に!何も助けてくれない癖に!黙れよ!
言われなくてもやってるよ!好きで遊んでない訳じゃねぇよ!うっせぇわ!
流行りの曲のようになってしまいましたが、そんな感じでとにかく周りからの雑音が本当にウザかったです。
皆さん、悪気がないのは分かっていますし、心配してくださっているのも分かっています。
でも、当時の私にはただただ負担でしかなかったです。
自分にそのつもりが無くても、相手を傷つけてしまうことがあるということを身をもって知りました。
ですが、それも回数を重ねていくと、段々と何も感じなくなっていきました。(今思えば、精神壊れてたかもしれませんw)
そんな感じで、生活が急変して、ストレスも多かったですが、何とか軌道に乗ってきて、数ヶ月後には母も仕事に復帰できるほどになり、妹も就職先を見つけて、家の収入的にも安定してきました。
父がいなくても何とかやっていける。むしろ浪費がなくなった分生活が楽になったとさえ思えてきた頃です。
父の容体が急変しました。
父が倒れて9ヶ月目のことでした。
延命処置はしない方針でしたので、このまま見守ることになります。
最後は家族みんなでそばにいてあげようということで、全員仕事を休んで、泊まりがけで父のそばにいました。
結局2日ほど病院に泊まる形で病院にいて、父は静かに息を引き取りました。
父がどう思ったかはわかりませんが、家族としては最後にそばにいることが出来てよかったかなと思います。
その後、父親の葬儀もしましたし、父には借金が多くありましたが、逆に資産は全くありませんでしたので、相続放棄をすることにしました。
そのために弁護士にまたお世話になったりと、色々とやることがあり、費用はほとんど私が支払ったので、また貯金が無くなりましたが、何とか全てを終えることができました。
既に父のいない生活には、家族全員慣れており、父がなくなっても生活に今更変化はありませんでしたが、何だか肩の荷が降りたような気分でした。
小さな時から父には散々辛い思いをさせられ、結局何も言えないままとなってしまったことはとても悔しいです。
でも、時には父親らしいことをしてくれたことだってありましたし、ここまで育ててくれたのは事実ですので、その感謝を伝えたり、恩返しをしたかったという気持ちもあります。
色々な感情が入り混じり今でも複雑な気持ちです。
ご両親がまだご健在の方は、ご自身の後悔がないようにしてください。
恩返しも文句も居なくなってからでは言うことはできません。
人生初めての彼女ができる
父のこと、家のこと、抱えていた問題が解決し、もうそろそろ自由になっても良いかなと思い始めました。
父のことで色々あり、貯金はありませんでしたので、一人暮らしはまだできませんでしたが、そろそろ独り立ちをしたいなと考えたのです。
そんな時、入社当初から仲良くしていた、同期の女性社員と会社帰りに食事などに行くようになりました。
私は徐々に彼女に惹かれていることに気がつきました。
自分の気持ちを伝えるべきなのか?悩みました。
彼女がいたこともない。貯金もない。家は貧乏。こんな自分が思いを伝えても迷惑なだけではないか?
思いを伝えたら、もう後戻りはできないし、ダメだったら職場にも居づらくなる。
色々なリスクを考えてしまいました。
しかし、父のことで何もしなかったことを後悔したばかりだったので、ここでまた何もしなければきっと後悔すると思いましたし、何も変えることはできないと思いました。
なので、私は思いを伝えることに決めました。正直玉砕覚悟です。
告白なんてしたことなかったので、どうしたら良いかもわかりませんでしたが、とりあえず食事に誘って、その帰りに思いを伝えようと言うプランを立てて実行に移しました。
まずは食事に誘うところからです。これは問題なく成功しました。
あとは帰り道どこで思いを伝えるかですが、ちょうど良く人気ない広場を見つけたので、そこに付いてきてもらって、言うことにしました。
ついに実行の日、仕事終わりに食事に行きました。いつもと違ってメチャクチャ緊張しましたw
食事が終わって、店から出てすぐにちょっと寄りたいところがあるから来てと彼女に言いました。
少し不思議そうな顔をしていましたが、付いてきてくれました。
そして、見つけた広場に着きました。人は誰もいませんでした。
到着してから、数秒の沈黙の後、最大の勇気を振り絞って、彼女に言いました。
「好きです。付き合ってください!」
人生初めての告白。ちゃんと出来ていたかどうかはわかりません。
下手に色々言うと、ボロが出ると思ったので、可能な限りシンプルにしました。
それを聞いた彼女は少し戸惑っているようでした。
私は彼女を見つめてただ返事を待ちました。
恐らく、数秒だったと思いましたが、私にとってはとても長い沈黙が続き、彼女が口を開きました。
「良いよ」
なんと!OKが貰えたのです!
正直、OKしてもらえると思わなかったので、泣きそうでしたw
こうして、人生初めての彼女が出来ました。
これから、色々楽しいことが待っていると、私はそう信じていました。
しかし、嬉しかったのも束の間、人生はそんなに甘くないことを知ることになります。
次の日からはLINEでこれまで以上にやりとりをするようになりました。
でも、基本的に私からメッセージを送って、相手は私の質問に答えるのみと言う会話がほとんど。
いわゆる、脈なしのやりとり。
デートの約束をしようとしても、忙しいから行けないと言われ、仕事終わりの食事も無くなりました。
会社での会話もあまり無くなりました。
私はその後すぐに職場が変わったので、とうとう顔を合わすことも無くなります。
私はしつこくならない程度にLINEでメッセージを送りました。(週2回くらい)
軽く流されるような会話をしつつ、たまにデートの誘いをしますが、忙しいの一点張りで了承してくれません。
特に何かした覚えはなく、告白した次の日からこんな感じでした。
今思えば、告白OKしたけど家に帰って冷静になったら、やっぱり止めたいな、今更言えないしどうしよう?とかそんな感じかな?と思いますし、当時の私も薄々感じてはいましたが、そんなこと信じたくありませんでした。
デートを一度もすることなく、一応付き合って4ヶ月が過ぎました。
相変わらず、LINEでのやりとりのみです。
年末だったので、会社の方で忘年会があり、そこに彼女も参加することがわかりました。
少し日にちは過ぎてしまいますが、クリスマスプレゼントを用意して、忘年会に行きました。
職場の人や友人など色々な方に相談して、マフラーにしました。
忘年会後、上手く帰り道二人きりになることができ、プレゼントを渡しました。
嬉しそうな顔はしていませんでしたが、一応受け取ってくれました。
そこから少しは状況が変わるかなと期待しましたが、残念ながら変わることはありませんでした。
それから、月日は流れ、付き合ってから半年以上が過ぎました。
彼女との関係は相変わらずです。
私はそろそろこの関係に疲れてしまいました。
私は、もう一度デートに誘って、ダメだったら、彼女の気持ちをちゃんと聞こうと決めました。
今までは、忙しいという理由で断り続けられていましたが、そんなに忙しいはずがありません。
結果は案の定ダメでした。その時もとても忙しいと言う理由です。
いつもなら、すぐに引き下がりましたが、今回は少し突っ込んでメッセージを送りました。
付き合う気がないなら、そう言って欲しいと。
すると、彼女から別れを告げるLINEが来ました。
そして、LINEは途切れ、二度とメッセージを送り合うことはありませんでした。
結局、彼女が何を思っていたのかはわかりません。
1つ言えることは、お互いにとても無駄な半年を過ごしたと言うことです。
結局何がいけなかったのか、未だによくわかりません。
こうして、私の初めての彼女は一度もデートをしないまま別れて終わりました。
正直、本当に彼女と言って良いのか、よくわかりません!
別れた後は、想像以上にダメージが大きかったです。
勇気を振り絞って告白して、OKしてもらって、色々楽しいことが待っていると希望に満ち溢れていたけど、何一つ実現せず終わってしまった。
自分なりに半年以上、色々努力もしたし、我慢もしてきたのに、報われることはなかった。
何だかとても虚しくなって、その日はただ泣いていました。
父が亡くなった時には泣かなかったのに、現金なものだなと思います。
婚活をすることを決意
彼女?と別れて、しばらく落ち込みましたが、引きずっていても仕方がないと、前に進むことを決意します。
しかし、周りに仲の良い女性もいないし、合コンを設定してくれるような友人もいません。
そうした中で行き着いたのが、婚活でした。
当時はまだ20代だったので、婚活なんて早いんじゃないかと思いましたが、行動しなければ変えられないと思い、やってみることを決意します。
そうして、3ヶ月の婚活期間を経て、出会うことができたのが妻です。
私はようやく人生の転換点を迎えました。
最高のパートナーを手に入れ、家からも出ることができました。
妻の協力で貯金もできるようになり、既に奨学金を返せるくらいにまで貯蓄ができています。
今までの人生、正直人よりも苦労した人生を送ってきたと思っていますが、そろそろ幸せになっても良いのかな?と思っております。
妻と出会えることが出来て、本当によかったと思っています。
妻と婚活で出会った話などは、ブログの記事に載せていきますので、気になる方は読んでみてくださいね。
現在
そして、現在に至ります。
仕事も順調で、夫婦仲良く暮らしており、2021年7月には子供が生まれました。
これからもっと幸せになるために、色々なことをしていきたいと思っています。
このブログを通して、私が今までの人生で培ってきた教訓やこれからやっていくことを記事にしてい期待と思っています。
同じような悩みを抱えている方や同じ楽しみを持っている方に少しでもお役に立てるような情報を発信できたらと思っておりますので、よかったらこれからも遊びに来てください。
こんな長いプロフィールを最後まで読んでくださってありがとうございました。
私の人となりが少しは伝わったでしょうか?
こんな人物がこれから色々な話題にしていきますので、今後ともよろしくお願い致します。